2007年9月21日金曜日

切迫早産の話

こんにちは、さとうです。ずいぶん日にちが経ってしまいました。今日は身近な話題について書いてみたいと思います。とはいえ、本当に身近な話でうちの嫁さんの出産の話です。

「切迫早産」という言葉をたぶんみなさんご存知だと思います。治療をせずにほっておくと早産になってしまうという状態のことで、病気として扱われます。うちの嫁さんがまさしくこれで、それも絶対安静の症状でした。(見た目は頑丈なんですけどね、、。)上の娘と下の娘の妊娠の時、両方とも切迫と診断され、即入院。絶対安静ということで、お腹の張りを押さえるために24時間ウテメリン点滴の状態がもういつ出産してもいいよとお医者さんに言われるまでの3ヶ月間続きました。

そして、出産。1人目は立会い出産をしました。3ヶ月間、不安の中本当によく辛抱して、無事3000グラムを超える女の子を出産。言葉では表現できないくらい大きな感動でした。一つは命の誕生に対して。そして、もう一つは、嫁さんに対して「本当によくがんばった」という思い。「よくがんばった」を何回言っても足りないくらい「よくがんばった」。

2人目の時は、切迫となることを既に予期していたので心構えができていたというか、嫁さんが言うには、母親の自覚を1人目の出産の時より強く持てていたので、何が何でもお腹の子を十分に大きくして出産する!という決意が大きかったそうです。

うちの嫁さんは、日本だったからこそ無事に出産できました。これが、もし途上国だったら無事に出産できなかったと思います、、、ちなみに、これが、僕がジョイセフに入ることになったきっかけです。

2007年9月20日木曜日

パキスタンの月と星

やっと最近、ハリー・ポッターの最新版が手に入ったので、毎日目がかすむまで読んでいました。昨日読み終わって、大満足!

さて、今まで辛い話ばかりでしたので、今回はパキスタンの希望の星について。
パキスタン訪問では、いろんな施設を訪問しましたが、その中に「加藤シヅエセンター」というところにも行きました。お気づきの通り、加藤シヅエさんは日本の方です。アメリカのマーガレット・サンガーさんという家族計画を広めたひとに感銘を受け、日本でも運動を広めたパイオニア的存在の人です。炭鉱の劣悪な環境のなかで、出産せざるを得なくて、命を落としていった女性たちをどうにかして助けたい!と強い意志をもって、当局の圧力にも負けず、女性のために一生をかけた方でした(ジョイセフの会長さんもしていて、なんと104歳まで生きておられました。ご長寿!)。
そして、彼女の活動に感銘を受けたパキスタンの女性が、加藤シヅエさんの名前を冠した女性のための施設を作りたい!と言って、パキスタンにいくつか作ったのが、この「加藤シヅエセンター」なのです。
相田みつをさんが書いていました。人を動かすのは難しい理論ではなく、感動なんだな、と。まさにそんな感じの出来事ですよね。

いくつかあるセンターのうち訪れたひとつは、地震の被害が大きな地域にありました。でも、このセンターだけは、崩れずに残ったとのこと。日本政府の支援も入って建てられたものということで、かなり造りがしっかりしていたようです。ここでは、女性のための職業訓練(裁縫、手芸など)や作ったもののマーケティングなどをしています。私たちの訪問スケジュールが予想外に長引き、約束の時間を随分過ぎたのに、加藤センターで学んでいる女性たちは、ひたすら私たちを待っていてくれたのです。その心根にも感動しましたが、なんだかパァーッと目の前が開けるような感じを受けたのは、そのセンターの雰囲気がとても明るかったからでしょうか。それまで訪れた場所は、女性だけが集まっている場所でも、わりとしんと静まりかえっていたのです。でもここは、キラキラしているようでした。ザワザワしてうるさいわけではないのですが、そこにいる女性たちがとてもにこやかに作業をしていたのが印象的な空間。このセンターを運営している人たちも、とてもイキイキと仕事をしていました。

その中で、センターで裁縫を学び、今や人に教えるまでになった女性に話を聞かせてもらえました。
彼女は、裕福な家に育ち、悠々自適に暮らしていたところ、突然の地震で両親と家をなくしてしまいました。家にも戻れないし、助けてくれる両親もいない。彼女と下の弟たち二人の避難生活で、途方にくれていたそうです。そんな時に、ある人(通りすがりのおばさんだったらしいです)が加藤センターのことを教えてくれて、もしかしたら何かあるかもしれない!という希望を胸に訪れたのが最初だったとのこと。そこでは、刺繍や裁縫を教えてくれるということだったので、弟たちを勉強させてやりたい、学校を出させてあげたい、と思っていた彼女は、刺繍を学んで商品を売って、生計を立てることを決心しました。彼女はメキメキと腕をあげ、とても良いものを作るまでに成長し、ひとり立ちしていきました。今では、加藤センターに自分の作った商品を卸しにきたり、今学んでいる女性たちに教えたりしています。そして彼女だけの力で弟たちを学校に通わせているそうです。

こちらが、その彼女です。
これは彼女のつくった、(たぶん)テーブルクロス。あの辺の地域独特の刺繍が全体に施されています。
ちょっと恥ずかしがっちゃって下を向いているのでよく分かりませんが、ものすごく目に力がありました、彼女。ちょうど少女漫画に出てくるような目の中に星がキラキラしている感じです。彼女の目を見て、ああ、こういう人たちが国を背負っていくんだな、と実感しました。国を「率いて」いく人たちはごく一部かもしれません。でも国を背負うのは、市井に生きる人々であり、身近な人たちのために一生懸命働いている人たちだと思います。


生きることを大切にし、愛する家族を想う、たくさんの彼女たちが、隣の人に生きる力の種をまき、そしてその人がまた自分の隣の人に種をまく。そういう小さな変化の連鎖が、前に進む原動力になるのでは、と思います。


パキスタン国旗の、三日月は進歩、星は光と知識を示すそうです。パキスタンの月と星が、人々に幸せをもたらしますように。




パキスタンの女性についてのお話は、ひとまずこれでおしまいです。
次のお話をお楽しみに!

2007年9月7日金曜日

暴力のすえにあるもの

またかなりご無沙汰してしまいました。3週間、休みも週末もなしでした。。。さすがにちょっと疲れています。

今回は、とても辛い経験をされたひとのお話です。
パキスタンでは暴力がとても多いそうです。しかも、非常にシビアな形で出てくるようです。「名誉殺人」という言葉を聴いたことがある人もいらっしゃるかもしれません。名誉殺人というのは、女性が、「家族の名誉を汚した」という理由で殺されるということです。「名誉を汚した」行為というのは、例えば、親の決めた相手とではなく好きな男性と結婚したいといって駆け落ちするとか、不純な関係を結んだとか。私には、殺される理由としては到底理解できないものでした。でも、家族(主に男性)がこういった理由で名誉殺人を犯しても、ほとんどが逮捕されないどころか、社会はそれをむしろ容認しているようです。

私がイスラマバードの女性支援センターで出会った女性は、真っ黒のベールを頭からすっぽりかぶり、目の下もベールで覆い、そしてサングラスをかけていました。横には小さな男の子が寄り添っていました。彼女は、20歳代前半で結婚、3人の子を産みましたが、夫が働かず、暴力も振るわれていました。もう離婚するしかないと決心したものの、なかなか同意してもらえず、離婚のためにお金をせびられたそうです。必死にお金をかき集めても、まだ要求された金額をわたせずにいたところ、元夫が子どもに会いに訪れ、一晩とまっていった夜、事件はおきました。すでに寝入っていたところを、何かの液体をかけられ、焼けるような激痛に目を覚ましました。でも、真っ暗で何も見えず、自分の体が焼け爛れていることが、触ってやっと分かったそうです。彼女は、元夫から硫酸をかけられたのです。近所の人に助けを求め、病院で治療を受けましたが、今も彼女の右目は全く見えず、左目は影が動く程度なら分かるくらいでしかありません。最後にベールをはずして見せてくれましたが、両目はほとんど真っ白で、また耳も一部がとけてなくなっていました。鼻もつぶれ、首から胸、腕にかけて皮膚がただれていました。今も、硫酸が目に残っているそうで、まだ目が痛くてしょうがないと彼女は言っていました。そして、胸につきささった彼女の言葉は、「生き延びたけれど、いっそのこと殺してくれれば良かったのに」。。。

隣に寄り添っていた2番目の息子で12歳の男の子(12歳とは思えないほど小さかったです)が、彼女の手をひき、病院にいくにも買い物にいくにもついてきてくれると、唯一の救いのように彼女は語っていました。でも、彼の目は悲しみと怒りでいっぱい。いつか父に同じことを仕返ししてやりたい、と。

こんなひどい話ですが、少しだけ希望がもてたのは、彼女が「殺してくれれば・・・」と言いながらも、強い意志をもって生きようとしていたことでした。やはり子どもがいて、支えとなる人がいると強くなれるのでしょうか。

彼女たちの話を私は今でもどうとらえていいかわからないでいます。この話がされていたとき、私は通訳としてそこにいました。だから、悲しみや辛さで、言葉をつまらせるわけにはいかず、感情の弁を閉ざした状態で立っていました。でも、感じていたものはあったんだと思います。それがずっと今も身体の中をぐるぐるしている感じがします。
具体的に彼女のケースに対して、世界中で起こっている暴力に対して、どうすべきかはよく分からないけれど、できることは、自分の周りにある暴力の連鎖を断ち切ること、連鎖を起こさないこと。よく、「知る」ことが重要、と言われます。知ったからってどうなるの?って思うこともあるのですが、知っていたら、彼女の思いに共感した瞬間を覚えていたら、自分や友だちが暴力を受けたり、逆に暴力(身体的だけじゃなく、言葉でも)を振るう側になったりしたときに、間違ってるって言ったり、思ったりするきっかけになると思うのです。日本でもDVがエスカレートして殺人に至ることがありますし、自分の身の回りで、できることもある。
それから、暴力を撲滅しようと努力している人たちもいるということ知っておくこと。緊急支援ほど注目を浴びませんが、UNFPAやいくつもの現地NGOは地道に啓発活動を続け、暴力を受けた人たちの救出に力を尽くしています。そういったところに日本のODAが使われるのは、いいことだなと思います。

暴力が思いのたけをぶちまける手段にならないことを祈って。

2007年9月6日木曜日

子育て中のファーザーです。

みなさん、こんにちは。
現在子育て中(5歳と2歳の娘です。)のファーザー(まだまだ30代)、さとうです。
家でも会社でも女性に囲まれ、大変な、いや、幸せな毎日を過ごしていますが、
ジョイセフ唯一の子育て中のファーザーとして、これから
いろいろとコメントしていきたいと思うので、よろしくお願いします。